龍松山 法泉寺
高松市の街の中に「龍松山 法泉寺」という秀吉の重臣、生駒親正公が讃岐の国守に任じられた時に、このお寺は大川紹偽を開山として宇多津に建立したのに始まり、当初寺号は海蔵寺と号した。
慶長3年に親正公が高松の城下町を開くに際して現在の地に移されているのだとか住職は説明をされた。この境内には大きな松の樹があり玉藻城から龍が天に上るように見えた処から山号の「龍松山」が定めれれたのだとか。以来ここは400年の歴史を持った古いお寺で、此処は離済禅の法灯を継いでいるお寺であった。
山門はもう無くなり、ただここには香川県の中でも3番目に古いと言われる梵鐘があり、その鐘は隣の備前の国金岡庄(今の岡山県西大寺市)の窪八幡の神主、藤井弘清が元徳2年(1330年)に鋳造したものと判る刻印があった。そして、住職からその鐘の様式は鎌倉期の様式を伝えていると、説明を受け、県指定の文化材となっているとも住職からお聞きした。
大きな釈迦像がそびえ、この釈迦像は日新・日露戦争で亡くなった同県出身の兵士2,329人の菩提供養のために忠魂碑として、明治40年に建立開眼されたものだといわれ、その後の第二次世界大戦の高松空襲でも一発の被弾もなく無傷で焼野ヶ原に立ち、再建に励む市民に心の安らぎを与えたのだという。
因みのこの高さは台座と共に17メートルあり、いつからか法泉寺はお釈迦さまのお寺と呼ばれるようになったのだと聴いた。
釈迦像の北側、奥まった場所に小さな半間四方の堂がある。この堂が生駒廟と呼ばれており、内部には生駒家二代・生駒一正(1555~1610)、三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が安置される。五輪塔は花崗岩製の小さなもので、それぞれ戒名が墨書されている。なお、法泉寺の寺名は、生駒正俊の戒名に由来する。
面白い話を聞いた。それは、「おしょろ狸と蹲(ツクバイ)」(たぬきの眼鏡)
どこが面白いかと言うと、高松の三だぬきの一角に位するのが、法泉寺のおしょろ狸といわれている。しかし、このおしょろ狸の消息と行履は杳として詳らかでない。
一方、境内に狸の眼鏡なる蹲が鎮座している。生駒の殿様が家臣に下賜されるたびに、その家が傾くという。遂に法泉寺に納められおとなしくなったのだとか!
さて、蹲に張られた水盤におしょろ狸は何を写して観ていたのだろうか?
「瓦紋」 城の天守や櫓、土塀などの屋根は本瓦葺です。そこで使われている軒丸瓦などに紋が描かれていますが、築城時やその後の補修のさいに時の城主の家紋が使用されたため、その絵柄は場所によってさまざまです。さらに、鬼瓦には十字や桃の実など家紋以外の模様が描かれているものもあります。
そして、これが、この寺紋・源氏車の瓦です。お寺の奥にたくさん置いてありました。
夏に咲く浜朴(ハマボウ)の大きな樹に黄色い綺麗な花を咲かせていた。このハマボウは近隣の岡山県では、瀬戸内海の島嶼にわずかながら確認の報告があったらしく、長らく再確認されなかったので絶滅したかと思われていたが、最近、再発見され、岡山県のRDBでは、絶滅危惧種であるのだとか