平池のいわざらこざら伝説
この乙女はため池を造る時に人柱になった乙女だと言う。これが「いわざらこざらの伝説」の話の元となったのである。
ちきり神社の案内板によると、およそ八百年の昔、治水二年村人達は深い憂いに沈んでいた。
というのは、平池の堤は幾度築いても雨が降るたびに崩れ田畑は水に流されて、普請奉行の阿波の民部田口成良も難工事にホトホトもてあましていた。今日も京都の都からは平清盛の厳命が届いたばかり。
その晩疲れはてて眠りもやらぬ成良の枕辺に白衣垂髪の女神があらわれ、不思議なお告げを残して姿を消した。
「あすの牛の刻、白衣垂髪の乙女が械のチキリを持って通るであろう、その乙女を人柱として堤に埋めれば工事はきっと成就する」というのであった。
まんじりともせず成良は早朝から人夫たちに堤を見張らせ乙女の来るのを待ちかまえた。程なくお告げの通りチキリを抱いた白衣垂髪の乙女が現れ、「今月は大の月な小な月な」とたずねると乙女を捕らえ準備した穴に投げ込み急いで土をかぶせてしまった。不思議にも「おつげ」の通りであった。 「案内板」より
その後、乙女の悲しいすすり泣きが聞こえるようになり、その霊をまつったのが勝(ちきり)神社です。
案内板にはこう描いてあったが、私が聞いた話では、人々はだれを人柱にするか相談したが、決まらないので、結局その事を告げた女を人柱として築いたのだと言う。その後、堤の東の岩の間から流れ出る水の音が、いわざらこざらと聞こえる。
それはいわざらまし、こざらましということで、いわなければよかった、こなかったらよかったという意味なのである。
人々は、それから池の中の乙女を丁寧に祭ったが、後に堤の西の埋め立た所に移して、さらに雌山の上に移し、ちきり大明神とあがめたのが、この地の鎮守だと伝えて、今は雄山の上に鎮座しているという事のようだ。少し違うが、果たして真実はどうなのだろう?